inkcube.org代表のMemorandum

インクジェット,3D,その他テクノロジーについて.

昔話(1)

先日記載した技術者層の薄さに起因して苦労した話を今日1つ,明日もう1つ.

他の会社ではどうかわからないが,ヘッド屋とインク屋はコミュニケーションがうまく行っていないことが多いのではないでしょうか.偏見もあるかもしれないが,どちらかと言えばインク屋さんのほうが自分達の世界に閉じこもりがちな傾向を感じていた.私のいた会社では,当初,お互いの拠点も遠く離れていたので,メールや電話による連絡はしていたが,顔を付き合わせ,お互いの現場で現物を見て話をすることは非常に少なかった.もちろんその後,インク屋さんも同じ拠点に集合することになるが,この話はまだそうなる前のこと.

最初に手掛けた商品は,プリントエンジン(ヘッド,インク,メンテナンス手段)の他社へのOEMであった.プリントヘッド構造は協業していたX社のヘッドをもとに私が考案し特許取得したA構造を採用することになっていた.しかし吐出滴サイズの大きい黒インクのリフィル性能を上げるため,黒インクには同僚が提案したリア抵抗の低いB構造を採用することになった.長年の研究成果として生み出したA構造はカラーインクにしか採用されず,残念であったが仕方のない選択だった.

ところがOEM先にサンプル(プリントエンジン)を渡す5か月前になり,システムテストで黒インクのみ画質上の大きな欠陥(抜け等)が発生し大問題になった.解析の結果,Face Floodingの発生であった.このシステムテストの直前,黒インクがいわゆるファストドライインクからスロードライインクの組成に変更になり,粘度が大幅に低下したのが原因であった.プリントヘッド側はインクの変更を知らされていたかどうかはもう記憶がないが,インク変更の決定の際,当然インク開発サイドで吐出安定性を確認したものと考えていたのだと思う,がそうではなかった.スロードライインクの方が,文字画質などが向上するのは間違いないが,決定にはプリントヘッドの技術者は関わらず,画質の向上という点のみでインクの変更を決めていたのだった.あまりにお粗末な話だった.急遽,Face Floodingを抑えるためB構造の(マスク変更せず製造プロセスのみで変更できる)あるパラメータを変え,流路抵抗を大きくした.その結果,Face Floodingによる大きな抜けは発生しなくなったが,小さな抜けが多発し,どうしても無くすことができなかった.シミュレーション等からリア抵抗が低いことによるバブルの後方への広がりとこれに伴うノズルからの気泡の吸い込みが原因と推定された.この仮説からリア抵抗があまり低くなく,カラーに採用したA構造で黒インクをプリントした結果,欠陥は全く起こらなかった.これより黒インクにもA構造を採用することを提案し,承認された.この時点でOEMへのサンプル出荷まで2か月半前までに迫っていたと思う.当時,プリントヘッドのチームはお互いの仕事ぶりを信頼しており,とても良いチームだった.黒インク用のヘッド構造を変えれば,10数枚のマスク変更になり通常なら3か月はかかる.1ヵ月後のバレンタインデーを目標にし,まず最低のプロセスのみ変更して黒インク用のA構造を作製し,同時にその結果がうまく行くという前提で,フルマスクを変更し2か月後のホワイトデーまでに完全な黒インク用A構造を準備する.それぞれバレンタインデー作戦,ホワイトデー作戦と命名し,ヘッドチーム一丸となって取り組んだ.

結果,作戦は成功し,予定とおりサンプルを渡すことができた.

遠い昔の話だが,自分の(技術の)周囲に枠を引き,そこだけに収まってしまうことの危険性と無意味さを強く感じた経験の1つであった.